Essay 4

小原 晩

生活を離れて人魚となる

SCROLL

ひろびろとした部屋には、大きくて、清潔で、シワひとつないベッドがある。そこにたらりと寝そべっている。そして、窓から広がる海を見ている。水面はきらきらとまぶしく光っている。これは、あれだな、人魚だな。と、こころのうちでつぶやく午後三時である。
 たいへん豪奢な部屋にて、自分だけが浮いているような気がしないでもないけれど、誰に見られているわけでもないので関係がない。
 よろしくお願いします、と心のうちで挨拶しながら、皮張りの冷蔵庫や飲みものたち、窓辺のソファー、大きくきもちよくひらく窓、目のなかに丸い光のできる鏡、ひろびろとして統一感のある洗面台、透けているから湯船に浸かりながら映画などを見ることのできるバスルーム、かわいい絵が飾ってあるお手洗い、質の良さそうなパジャマ、スリッパを見て回る。
 それから一本、冷蔵庫から瓶のりんごジュースをとって飲む。甘くて、すっきりとして、おいしい。窓辺に立って、軽々と飛ぶ鳥たちや、うれしそうに行き交う人々、光る海をぼんやりと見る。今日は、とっても晴れている。

天気の良いときにすべきこと、それは散歩だろう。海辺をゆっくりと歩く。駅からホテルまで歩いていくときに見つけて気になっていた建物、ぷかりさん橋に浮かぶカフェに入り、ホットコーヒーを注文する。名前のとおり、席につくと、ぷかり、ぷかりと揺れているのがわかる。コーヒーを飲みながら、ここからの二泊三日でやりたいことをメモする。それはたとえば、部屋で原稿を書くとか、ルームサービスでなにか食べたいとか、あの大きなベッドに横たわりながら映画を見るとか、コースディナーを食べるとか、そういうことである。
 わりとすぐにカフェをでて、部屋に戻り、すこし眠った。昨日は、徹夜だったのだ。
 目をさまして、髪を整え、古着のワンピースに着替える。すこしきれいな自分でいたいときにだけ着るワンピース。だからこのワンピースにはとくべつな思い出しかない。ひさしぶりにおめかしのようなものをした自分が鏡にうつる。こういうのもときにはよいな、もう大人だし、と照れながら思う。

レストラン&バー「Larboard」へ行き、ゆったりとしたソファー席にひとり腰かける。ドリンクメニューを見せてもらい、スパークリングワインを頼む。やはり、まぶしい海を見たあとは、きらきらひかるお酒をわたしにください、そういう気持ちになるものである。アミューズを食べ、おいしくてきもちが高揚する。スパークリングワインをひとくち飲む。もっと高揚する。こりゃ、しゅわしゅわですよ。前菜の「真鯛のカルパッチョ仕立て 冬野菜のサラダと和柑橘のドレッシング」が運ばれてくる。背筋ののびるレストランでみる、サブタイトルみたいなの、いいですよね、とひとりごちる。真鯛で冬野菜を畳むように包み、口へ運ぶと、それはもう、頭から小さな花の出るようなおいしさである。本日のスープは蕪のスープ、そこに運ばれてくる温かな白いパンと、茶色のパン。ちぎっては、食べ、ちぎっては、食べ、飲み、食べ、飲み、食べ……。やさしく目をつぶって、ゆっくりと目をあけて、それから小さなため息をひとつこぼす、そういうふうなしあわせ。こんなごちそうは、身に余るしあわせだと思っていたけれど、全身全霊でたのしんでいるわたしがここにいる。しあわせは身に余らせず、食べつくす。そういった、あたらしい信念の生まれた瞬間だった。

満腹で、部屋に戻る。うきうきで、湯船をはる。それから丁寧に髪を、体を洗って、ゆっくりつかる。大げさに、息を吸って、はく。家の湯船よりも、やはり大きい湯船にすっぽり身体を沈めて、とてもよいこころもちになり、ぽかぽかになったからだを、バスローブでつつむ。一度、着てみたかったのだ。きれいなまあるい鏡の前で、バスローブ姿のわたしが、くるりと回る。浮かれているのだ。
 鼻歌をうたいながら、髪を乾かし、やわらかなパジャマに着替えて、ベッドに入る。それから、川上弘美の「王将の前で待ってて」を読む。読みながら、やってきた眠気に身をまかせ、ぐっすりと寝る。
 朝は、ひさしぶりにはやく起きた。カーテンを開けると、海は、哀愁をさそう佇まいをしており、わたしはそれを、やはりベッドでたらりと横になりながら、無言でみつめた。みてもみても、飽きることはない。なんかほんと、人魚みたいな、きもちになってきた。

ベッドにからだを沈めたまま、手元のリモコンでテレビを操作し、ルームサービスのアメリカンブレックファストを注文する。
 せっかくなので、待つあいだに映画を一本みることにした。大きなベッドの上で、ひとりで映画を見るのは、なかなかいい。あのころ思い描いた大人というものは、こういう時間をもつのではなかったか。見ているのは、暗い映画であるけれど、それはそれとして、いい気分である。
 しばらくすると、アメリカンブレックファストがやってくる。ああうるわしき、アメリカンブレックファスト。ポップアップトースターはぴかぴかに磨かれていて、日用品以上の佇まいである。パンが焼けるあいだ、すこし離れたところから朝食を眺めてみる。これらすべてが、わたしのための朝ごはんなのだ、と思うと、あらためて、うっとりする。椅子にすわり、たいへんにっこり食べてゆく。1時間かけて、ゆっくりと味わう。よろこびほうだいの朝だ。

昼ごろは、散歩に出た。エレベーターを降りて、一度、自分の部屋を見上げてみる。なぜか、それだけでおもしろい。空はきれいに晴れていて、海のまわりを歩く。赤レンガのほうへ行き、臨港パークのほうへ行き、歩く、歩く。いろんな犬とすれちがう。

それから、部屋へ戻って、原稿を書く。
 すばらしいホテルで、かんづめ。憧れの作家生活が、いま目の前にある。けれど、原稿はそう簡単にはすすまない。ふと、顔を上げる。窓の向こう、海。さっきまでの青はすこしずつ色を落とし、気がつくと、外はすっかり暗くなっていた。すると、おなかが鳴る。わたしは、ほくそ笑みながら、ルームサービスで「鮨処 かたばみ」から、漬け鮪といくら重を注文する。
 待つあいだ、冷蔵庫からビールをとりだし、グラスに注いで、窓際のソファに腰掛け、ひとくち飲む。喉をつたうつめたさが、すーっとからだにしみてくる。窓をあけると、海の音がする。
 やがて、漬け鮪といくら重がやってくる。ふたを開けると、あらわれる赤の輝き。漬け鮪のつややかさ、いくらの透きとおった粒々。うっとりと見つめ、箸をとる。ゆっくり、ひとくち。あまりにおいしくて、うわあ、と声がでる。自分の声にすこしおどろく。目を閉じる。噛みしめる。おいしい。ビールをひとくち。つめたさが喉をすべる。ひとは、満ち足りると、いったいどうなるのか。感謝するのだ。わたしはひとり、大切に、大切に、箸をすすめながら、ホテルのみなさんに、そして、なにか壮大なものにまで、ふかく感謝した。
 ふかく感謝しながら、ベッドに横たわり、まんぷくの腹をさすっていた。
 すると、突然、爆発音が聞こえて、思わずびくっと体が反応する。
 花火だ。そうか、今日は花火があるんだった。急いで窓を開け、なにもかも忘れて空を見る。ひとりじめだ。前から、ひとりで花火を見てみたいと思っていたけれど、こんなふうに実現するとは思わなかった。そのひかりが、ほんの一瞬で消えることを知っているから、余計にじっと見つめてしまう。

花火は儚いものだと言われるけれど、わたしはそう思わない。むしろ、花火は、とても良心的なものだと思う。暗い空に、あんなふうに明るく咲いて、ほんの一瞬で消えていくことこそが、花火なりのもてなしだと感じる。だから、終わったあとも、温かいこころもち。すっかりたのしんで、夜の散歩に出る。
 向かったのは、横浜中華街。こんなとき、自分がたくさん食べられるほうの人間でよかったな、としみじみ思う。なにしろ横浜にきたのだから、食べたいものがあったのだ。それは、山東の水餃子。何年か前に、ここで食べた水餃子の味が忘れられなくて、来るたびに食べている。最近、店が移転したと聞いていたけれど、無事たどりつくと、思ったよりも明るくて、どこかファミレスのような雰囲気だった。けれど、水餃子は、変わらずおいしかった。これで、もうほんとうに、たのしみきった。なにも思い残すことはない。

帰り道、小雨が降りだした。夜の横浜は、濡れると、つやつやとして、きれいだった。傘をささずに、ゆっくり歩いた。
 部屋に戻って、お風呂をためる。湯船につかって、ぼんやりと、この二日間のことを振り返る。ああ、たのしかったなあ、と、お湯のなかで小さくつぶやいてみる。忘れたくなくて。お湯から上がって、からだを拭き、髪を乾かし、ベッドに入る。あっというまに、眠ってしまう。
 朝、目が覚めると、雨はつよくなっていた。窓を開けると、昨日までの海とは、まるでちがう迫力があることに気づく。なんだか、かっこいい。
 帰りたくないな、と思う。けれど、そう思いすぎると、なんだか帰りたくなくて仕方がなくなりそうだから、そういうことは考えないようにする。淡々と荷物をまとめ、人間のすがたで、部屋を出た。

あれからしばらく経ったけれど、わたしは、ふと目を閉じて、あの海のことを思い出す。そして、ときどき、人魚に戻る。

PROFILE

小原 晩

作家

小原 晩

BAN OBARA

1996年、東京生まれ。作家。2022年『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』(私家版)。2023年『これが生活なのかしらん』(大和書房)。2024年『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』(実業之日本社)

宿泊した客室

クラシック ヨコハマハーバービュー

クラシック ヨコハマハーバービュー

1ベッド(ダブル)

海に浮かぶ桟橋のカフェ

ピアトゥエンティーワン ミュージックカフェアンドバー

PIER21 MUSIC CAFE & BAR

ピアトゥエンティーワン ミュージックカフェアンドバー

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